Vol.489「自分」

もうすぐ51歳になろうかというのに、いまだ50という年齢に馴染めない自分がいる。たまに周囲に聞いてみたりする。「俺って50歳に見えるのかね?」
年を重ねるのが嫌なわけではない。若く見られたいと願っているわけでもない。ただ違和感がある。おそらく自分が思い描いてきた50歳の大人と今の自分に大きな差異があるからだろう。

新入社員の頃、50歳の役員はほとんど何も置いていない立派な机の向こうで、皮張りの大きな椅子に深く座り、いつも黙想し(寝てた?)、たまに目を開けてメンバーの様子をチラッと見て、その一人をちょいちょいと手招きし、短く指示を与えてまた黙想に入る。その姿が妙に大きく見えて、余裕めいたものを感じ、そしてたまに呼ばれた時は緊張したものだ。

方や今の僕。朝からバタバタドタバタ。出荷業務をしながら農家さんやスタッフとガハハと笑い、飛び込んでくる電話にハイハイと出て、時計をチラ見しながら入力業務、さあ時間とトラックに飛び乗って集荷に回り、帰ってきて急いでメールチェック、「アリさん、これどうしましょうか?」と声を掛けられあれこれ話していたら思った以上に時間が過ぎたりして、おいおい会議に間に合わないじゃないと独り言。頭をかきながら遅れて申し訳ないと会議に入り、終わったら「よっしゃ、さっさと終えようか!」とまた現場に戻る。万事がこんな感じ。この軽さは何だ、大人の余裕はどこへ行った?

自ら選んだ道とは言え、40歳の時に50歳の自分がこんな感じで過ごすとは想像していなかった。イメージしていた10年後に成し遂げるはずだった事業とは程遠く、超不満足且つ情けなさが募る。上場企業の役員になってそれこそ“ええ感じの大人”になっていたり、アーリーリタイヤして悠々自適の生活を送っている同期もいるのにと思ってみたりもする。その昔は心がシクシクしたものだが、今は少し変わってきた。

できる自分を証明したかった自分、それは一応結論が出た。おそらくどの道を選択していても大した結果は出なかっただろう。むしろ、この道を選んだことで自分が何者なのか、どれほどの者なのか納得して理解できた気がする。たぶん、そうでなかったら、出ない結果の原因を他に求めるか、もしくはそこから逃げるか、いずれにしてもつまらない大人になっていた可能性が高い。

ちょっと時間的な焦りを感じるようにはなってはいるけど(これが50代の感覚なのかな?)、定めた道を進めるように、学び、行動し、色々な人に力をお借りしていこう。こう見えて?実は結構諦めが悪いのです。
それと、一つだけ昔と変わった自分を自覚することがある。それはスタッフと一緒にいるときの自分の立ち振る舞い。たぶん今の方が自分らしいのかな。

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